私たちも海外旅行へ行こう!!

最近、ゴールデンウィークや夏休みなどに海外に行かれる方がふえましたよね。「いいなぁ」と思っている私。だから安く行ける方法の情報収集したり、体験談来たりして疑似体験しながらモチベーション上げて、私たちも行きましょう!!きっと。近い未来に。

今日は何の日?@10/14  『シャーロック・ホームズの冒険』が刊行されました。

こんばんは。「私たちも海外へ行こう!!」の執筆者、鷹野です。

 

久々の「今日は何の日?」シリーズですが、題名の通り、

 1892年の今日、シャーロック・ホームズシリーズの最初の短編集『シャーロック・ホームズの冒険』が刊行されました。

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ウィキペディアより引用

 幼少期は貧困生活!?

コナン・ドイルは、スコットランド労務局測量技師補のチャールズ・ドイルとその妻メアリー(旧姓フォーリー)の長男としてスコットランドに生を受けました。ドイル家は祖父のジョン・ドイルさんが風刺画家として有名になってからは世間からも結構な注目を集めていたそうです。

しかし、五男のチャールズさんだけは一介の測量技師補から出世できず、しかもアルコール中毒だったため、発症後はその仕事も失って、療養所に入れられました。

 

(今も昔もどこの国にも存在するんですね、こういった問題・・・。)

 

そのため、

幼少期・青年期のアーサーは貧しい環境の中で育ったのです。

 

しかし!!!

 

彼の運はここですよね。伯父さんたちがお金持だったので、親族の援助もあって、進学もしてオーストリアに1年間の留学もできてるのです。

 お母さんグッジョブ!!!

オーストリアから帰国した頃、母のメアリーは少しでも生活費を楽にするために、ある医師を間借り人として置いていたのです。家賃収入ですね。

で、

この間借り人の影響を受けて、ドイルは医師を志すようになり、1876年に、かの有名なエジンバラ大学医学部に進学しました。ホームズも医者ですよ!!!


医者としては成功せず?

大学を卒業後は、船医をやったり友人と共同診療所を開設したりしますが、どれもうまくいかず、友人と決別後はポーツマスの郊外で診療所を個人開業しました。

が、

これもうまくいかず、8年間診察所を続けた結果、その年収が300ポンドを超えた年は無かったそうです

 

(結構ヤバいですね。)

 副業開始!!!

暇だった(?)ドイルは、患者を待つ時間を利用して短編小説を執筆して、雑誌社に投稿するようになりました。まぁ、これも買い取ってもらえるのは稀なケースで、大半の作品は返却されていたそうです。

 

(うまくいかないなぁ。自分を見るようだ・・・。一緒にしちゃダメか(^^ゞ)

 

 やっぱ、天才かも

短編小説は小遣い稼ぎにはなっても、作者名が掲載されないので、その場限りというのが難点だったそうです。

ドイルの自伝にると、結婚後、このまま短編を書き続けても進歩がないと思うようになり、単行本になるぐらいの長編小説を書こうと思い立ったということです。

 

(諦めない強さ!!見習わなくては。)

 

はじめに『ガードルストーン会社』という長編小説を書いたものの、出版してくれる出版社がなかなか見つからず、刊行は1890年まで待つことになりました。

その後、1886年3月から4月にかけて執筆した長編小説がシャーロック・ホームズシリーズの第一作『緋色の研究』でした。これも出版社がなかなか見つからなかったそうですが、1886年の10月末にウォード・ロック社に25ポンドという短編並みの安値で買い取ってもらいました。

この、買いとられた『緋色の研究』は、1887年11月出版のペーパーバック『ビートンのクリスマス年鑑』に掲載されました。その翌年には単行本化もされましたが、反響はほどほどというレベルだったようです

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ウィキペディアより引用

(なかなか、世に出て来ないですね。)

 

ついに有名小説家!

結局、この『緋色の研究』もパッとしなかったために、1887年7月ごろから半年近くかけて『マイカ・クラーク』という歴史小説を執筆しました。

 

イギリスの王位継承の反乱事件を題材にした歴史小説だそうです。

 俺は歴史小説家!

この『マイカ・クラーク』があたりまして、1年間で3度重版され、本人いわく”出世作となります。

その後、アメリカの出版社からの依頼でシャーロック・ホームズシリーズ第二作の長編小説『四つの署名』を執筆し、これもなかなかのベストセラーだったようです。

しかし、

ドイル当人は歴史小説が自分の本分と考えており、歴史小説家として名前を残したがっていた。そのためホームズの評判が高くなりすぎると、逆にホームズを倦厭するようになった。
ウィキペディアより

(どこまでも、ズレてますね・・・。)

 ホームズシリーズの続編誕生!!!

そんな中で、とある出版が、ドイルに「歴史小説よりもホームズシリーズの続編を書いてほしい!!」と要請し続けていました。

 

しかし、「俺は歴史小説家だ」と考えていたドイルは、「1000ポンドの報酬を出すならもう12編のホームズ短編を書いてもいい」という条件を提示しました。

 

(超破格の報酬条件を提示して諦めさせようとしたんでしょうね。)

 

ところが、

 

同社がこの条件を本当に呑んじゃったため、ドイルは「シャーロック・ホームズ」を書くしかなくなったのです

(ありがとう!!)

 

 

小学生の時、夢中になって読んだなぁ。。。アーサー・コナン・ドイル天才だ!!

(これで、イギリスに興味持ち始めたんだよなぁ。小学生の時)

 

ところで、

この、医者と小説家の兼業、日本にもいませんでしたか?

 

そう、明治の文豪、森鷗外です!!

1862年2/17に生まれて、1922年7/9没。

 

ドイルは? 

 1859年5月22日 – 1930年7月7日

ウィキペディアより

なんという、歴史の絡み合い!!!!

 

今日は、ここまでに致しましょう。